人間とはオムレツである。
人間オムレツと言うのは別に私の造語ではない。確か心理学で出てきた言葉だったと思う。フランスの学者かなにかが、人間とは中身がオムレツのようにドロドロであるといいたくてロムレットという言葉を作ったらしい。
人間の精神とは確固たる「1」ではない、と言うことらしいので、ちょっと小話をしてみよう。これはある意味小説かもしれないし、エッセーかもしれない。しかし自分の心のうちから出てきたものを書いてみるので作品には間違いない。
人間オムレツ1
創作をする事はある意味自分の中にいるもう一人の、本当の姿の自分と話をする事だ。本当の自分は非常に醜く、バケモノのように追いかけて来る。逃げれば逃げるほど人を食らおうと面積を広げてくるアメーバのように、だ。
過去の意味不明なトラウマを消してやろう。そう思ってバケモノと対話をするときはたいてい、「お前の弱点はなんなのだ」と内なる敵に問いかけると面白いぐらいにひるむ。これまでは逃げてばかりの弱者を追いかけていたら、急に恐ろしい形相で反撃してきたので戸惑ういじめっ子のようである。
人間と言うのは皮膚であるとか化粧をして見た目を取り繕って生きているが、そのうち側はとらえどころのないドロドロである。それは脳、とくに精神の構成に顕著である。
「私は私である」ということがごく当たり前とされ、それが世の中の常識とされていることに何ら疑問を抱かなければそのまま人間の皮を被って生きていける。くだらないことに悩むことなく、楽しく限りある生を謳歌するには最良の人達だ。
しかし「私は私である。それ以外のなにものでもない」という事実を唱えることに立ち止まってしまうものと言うのは、本のページのほんのちょっとのずれを日々飽かずに眺めるように小さな問題をこねくり回すことになる。
2
「AはAである」と言い切ることに不快を感じる。こんな悪魔のささやきを吹き込んでいったのはまぎれもない、埴谷雄高である。いわゆる同一律・自同律の不快と言う奴だ。
父の書斎にあった黒い表紙の本はただただ静かに座り、『死霊(しれい)』といういかめしい題を掲げていた。他の古典全集の背表紙はお高く留まったようにツンとして高いところに収められていたが、その黒い本だけは近づきやすい悪魔の誘惑のようにふるまっていた。
多感な年であった私がその黒い本を手に取るまでにそうは時間がかからなかった。干支をかたどった時計のついた精神病院や、そこにいる二人の姉妹は訳の分からない折り紙遊びに興じている。
精神を病んでベッドにいる者たちの中で特に目を引くのが「黙り病」にかかった男だ。
「AはAである」という同一律・自同律の事を考えすぎたらしく、静かに気が触れていったらしい。
さて、この本は形而上学文学だという。哲学的な考えを盛り込んだ文学作品だそうだ。
巷では「あの本を読むと気が変になるから近づくな」というじゃないか。でも埴谷雄高の『死霊』は純文学然とした姿をしているくせに、とんでもない精神の毒を注ぎこんでいく。こちらの本の方が強烈・もとい悪質だ。(ほめている)
その日から「私はどこまでが私で、どこまでが私じゃないのか」考えるようになった。父も似たようなことをしていて、「1センチを細分化すると、いくらでも細かくできる。mmでもいいし、マイクロメートルでもいい。小数点で割っていけば無限に細かくなっていくのだ」と得々と語った。親子そろって訳の分からないことをしたものだ。
鏡の向こうに向かって「お前は誰だ」と言い続けてゲシュタルト崩壊を誘う実験があるが、「AはAであると言い切ることに違和がある」という考えを続けることで自分の精神は静かに裂けていった。
一個の確固たる精神はありえないとおもいこみ、固さも柔らかさもまちまちのドロドロ卵焼きの内側を見ないようにフライ返しでひっくり返し、滑らかな表面を表に出して普通の人間のようにふるまっている。
本当はそんな事など気にしないで生きていけるのが一番の幸せなのだ。こんな些末なことをあれこれといじくりまわして創作のネタにしている自分よりも、はるかに。