はじめに
今回は書評というのではないけど、大塚英志先生の『物語の体操』を元に考えたことを話してみます。
なにか創作をするときは、関連する本や映画をたくさんみておいた方がいいらしい。
これを聞いた最初は「ネタがかぶったらどうするのか」とか、「パクリと言われたらどうするのか」と思っていました。大塚先生によると、創作というのは同書の50ページでこういっています。
(中略)
「大前提としてぼくたちの創作行為は世代間の『借用』や『盗用』の連鎖なのだ
という、著作権法や知的所有権のタテマエとは別の曖昧な領域の所在を許容しな
いと新しい才能は出て来にくくなるのも確かなのです」
とはいっても大塚先生はそのまんまパクれと言ってるわけではないでしょう。「人々が自然と好む型・パターンを踏襲しなさい」といいたいのではないかと思います。
型から離れすぎた作品と言うのは、たいてい嫌な感じがするからです。
人々に受け入れられる「型」の予習
世間では個性的な作品が受け入れられているようでいて、実は一定の「型」を持つ作品が受け入れられるのではないでしょうか。
例として、ゲームや物語を題材に考えてみますと…
「ドラゴンクエスト1」は竜王を倒すのが最終目標です。
「ファイナルファンタジー5」はエクスデスという敵が最終目標となっており、倒すとそこでエンディングとなります。
ドラクエの元になった『指輪物語』も、直接魔王を倒すわけではありません。しかし強大な魔力を秘めた指輪を火口に投げ入れて始末する、というのが大切な話の肝になっています。
『指輪物語』の副題は「行きて帰りし物語」とつけられており、異界(たとえば敵のアジト、敵がすむ世界)に行って敵を倒して帰ってくるのがおおまかなあらすじです。
これは「桃太郎」「一寸法師」「ジャックと豆の木」といった物語に共通するパターンであって、『指輪物語』だけのオリジナリティではありません。
型から外れた作品が不愉快な感情を引き起こす理由
人間は「結末がわからない」と不安になるものです。でも「この作品は最後に明るい未来が待っている、救済がある」と思えればお話をじっと聞いていられるのではないでしょうか。
※悲劇的な作品はこのパターン通りにはいきませんが、主人公が亡くなることによって何かしら変化があったり落としどころがあるので今回は扱いません。
何かしらの救いがあると思って映画や小説に向き合った時に、そのパターンから外されるとひどくがっかりするものです。
ブラッド+は吸血鬼の物悲しさを十分表現できていた
以前「ブラッドC」という作品を見たことがあります。
この作品は「ブラッドザラストヴァンパイア」「ブラッド+」の続編として作成されたものです。CLAMP作品ということで、「レイアース系の鬱展開でも来るか」と軽く考えていました。そして「CLAMP作品で表現されるヴァンパイアとは、どんなものなのだろうか」と期待もしていました。
実は前作の「ブラッド+」はグロテスクな表現もありましたが、「できるだけ視聴者を不快にさせない」配慮もされていました。主人公の小夜(さや)が対立するディーヴァも、残虐な性格ではあるものの己が産み落とした双子には何かしらの情を抱く存在であって視聴後に不愉快な気持ちになることはありませんでした。
命の再生産ができない吸血鬼が、長く生きるからこその苦悩。そして血液を媒介にして愛しい相手を吸血鬼の仲間にしてしまったときの喜びと深い後悔。こうしたテーマを求めて「ブラッドC」を見た私は、その期待を粉々に打ち砕かれました。
ブラッド+の感動を打ち砕いたブラッドC
CLAMP作画なので、絵柄がキレイでどちらかというと萌え系に近い。
日本刀での立ち回りシーンもけっして悪くない。
しかし、物語の核心がシリーズ中盤まで明かされず、ひたすら異形との戦いが続くのです。まるで世界がループしているかのように、朝目覚めて主人公が学校へ行き、夜は異形と戦い、また朝がきて…というこのルーチンが何話も続くのでかなりストレスになったのは覚えています。
起承転結の転結は急速に訪れました。フラグ回収なんていうものでなく、「話を強制的にたたむために適当にこじつけた」ようなものでした。
主人公の身の回りにいた人物たちはあくまで実験の一環で連れてこられただけで、実はかかわりが昔からあるわけではなかったこと。
それを暴露する人々の顔の醜悪さ。
キレイ目可愛い人物たちが、次々と敵につかまり命を奪われていく様はとにかく悪趣味なスプラッタとグロでしかありません。(グロ作画はめちゃくちゃ頑張ってるなぁとしか思わなかった)
型から外れたブラッドCへの評価
ブラッドCももちろん頑張って制作したことはわかります。しかし、唐突に放り込まれた「主人公の周りの人物、全員作り物説」が、話にとって本当に必要だったのか今でもわかりません。
それだけでなく、急に「日本の和歌に吸血鬼の手掛かりがある」だとかよくわからないフラグ回収もどきも放り込まれます。
そして最後に戦うべき敵が誰だったのか、いまだに全く覚えていません。そのうえ超展開過ぎて「この作品はこれだけ時間とお金をかけて、一体何をしたかったんだろう」という気持ちだけが残りました。
物語に大切な「伏線を貼っておいて適宜回収する」こと。
「話の型はオーソドックスにして、人物の性格や成育歴になにかしらの個性を付ける事。
こうしたことが大事だと思うのですが、ブラッドCは見事にパターンを外してくれました。その結果、「一体何をいいたいのかわからない作品」という評価しかできなかったのです。
悲劇にしたかったのか、悪を打ち倒す話にしたいのか。なかなか作品中でアピールするのもむずかしい点ではありますが、それでも「もうクールが終わるから、最後にネタバレ要素放り込んでどんでん返しで終わり~☆」という展開は許しがたいものがありました。
一応敵はいるのです。しかし最後の最後で、「続きは劇場版でお見せします」という字幕をうってエンドロールが流れたのです。
…ほんとに何がしたいんだ。
まとめ
作品を作るときは、一定の型・パターンを仕入れろと言います。
物語の型から外れた作品は、視聴者に斬新な印象を与えるよりも混乱を与える可能性が高い事をお伝えしました。
型にはまっていることで安心して物語を楽しめますが、ブラッドCはいったい何がゴールなのかがわからないため見ていてストレスを感じることが多かったように思います。
もし、ブラッドCを愛する方がいたらごめんなさい。しかしこの作品は見た後に爽快感もなく、倒すべき敵も誰だかよくわからず、「日本の和歌には吸血鬼がいる」という主張をした女性は学会の空気をディスりながら落命するという斜め上過ぎる展開の連続でした。
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