物書き健児

物書きに大切なのは健康である。

原因不明の肺病にかかって死を覚悟した時の話

 

お題「これまで生きてきて「死ぬかと思った」瞬間はありますか?身体的なものでも精神的なものでも」

高校生の時、わりと真剣に死を覚悟したことがあったのでちょっと書いてみる。

妙な呼吸器系の病気にかかり、町医者にいっても原因がわからず苦しんだことがあった。実はいまだに病名はわからない。とにかく苦しい上に、適切な薬をもらえなかったことで改善せず、死を覚悟したことだけは確かである。

妙な咳が出る

そもそものきっかけは、帰宅後の「ケンケン」という咳だった。ゴホゴホ、ゲホゲホ、は経験がある。「ケンケン」という妙に尖った感じの咳と言うのは初めてだった。

 

まあ、自然に治るだろうと思って構わずにゲームをやっていた。それが後々ちょっとした問題になる。

身体が90度も跳ね上がるほどのすさまじい咳

なぜかその病気は咳の程度がすさまじかった。ベッドに横たわっていても、咳をすると反動で体が約90度も起きてしまうのである。

ある程度でおさまるならまだいい。いつまでたっても咳が止まらず、当然ながら体力はかなり削られていった。

 

不思議なのは、当時家にあったグリム童話(かなり描写がきついバージョンで、茶色い表紙の本だった)を読んでいる間だけは咳が収まっていた。ただ、夜になると猛烈な咳がぶり返したのであった。

病院に行っても原因不明

これだけ症状が続くと、さすがに受診を考えた。町医者に行っても「まあ、風邪でしょう」ということで抗生剤が出ただけだった。

4日分飲み切ったが、それでも当然治らない。

 

再度診察を受ける。

担当医には「百日咳ににているけど、高校生がかかる病気ではない」と言われただの風邪とされた。そのときもかなりきつい咳が出ていたため、少し長めに薬を出してもらえないかと聞いたが、「君は残薬の量も計算できないのかね」とぴしゃりはねつけられて帰らされる羽目になったのであった。

 

当時は私も理不尽だと怒っていたが、薬を転売したり横流しする奴もいるから仕方ないらしい。だからだれかが悪い、と非難するつもりはない。

ただ、このとき担当医がレントゲンとってくれたらなぁ、とは今でも思う。

ますます悪化。食事がとれない

さて帰宅し、服薬する。

毎晩毎晩90度も体をはね上げて咳しているから、当然食事なんてまともにとれるものではない。親も心配して、カロリー高めのチョコも出してくれたが全く喉を通らないのだ。


母よ。心配してくれるのはありがたい。

でも風邪の時はおかゆがベストだったと思うよ(遠い目

 

さてさて。ろくに食事がとれず、自分の腕の内側が紙のように白くなっていくのを見て「やべ、死ぬかも」と思うようになった。

本やエッセーで目にしていた余命何日、という話はこれまで他人事だったが、急に身近に迫ってきていた。

のんべんだらりんと過ごしていた何の変哲もない日々。

それが、急にわけのわからない病気で食事がとれなくなってしまった。

しかも薬はあんまり効かない。

「もしかするとこのまま私は死ぬかもしれない」

もうダメなんかな、と思っていた。

 

あまりごちゃごちゃ言わずに受け入れるしかねぇか、なんて思っていたその日の夜、私は車に放り込まれた。日中仕事、夜は入退院を繰り返す親族の付き添いをしていた親も、さすがにまずいと思ったらしい。

時間外であったが、大学病院へと連れていかれた。(なお、今から30年前は特別選定費といった料金もなく、大学病院は非常に込み合っていたのが日常の風景だったことを申し添えておく。同居の祖母も孫を病院に連れていこうという機転や愛情を持たなかった人物なので)

 

最終的に大学病院。原因は…

病院に到着した後もまともに座っていられず、ソファーに横になっていた。座る気力もなかったと思う。学校を休みたくても風邪をひかないものだから、毎日「風邪ひかないかな」などと思っているほど丈夫な私が、椅子にすら座れないのはショックだった。

 

それでも病院という場所のもつ力はすさまじい。敷地にはいって白い建物を見た瞬間、「ああ、助かるぞ」と思えたからだ。それまで出ていた激しい咳はすっかり引っ込んでしまった。

 

夜の大学病院はそれなりに騒がしいが、窓の外は静まり返り遠くからやかましいサイレンが響いてくる。緑の非常灯が廊下をぼんやりと照らしている光景が、妙に不吉に見えるので嫌だった。まあ、赤い光だったら余計に嫌だが、「緑色使ってるから、落ち着けよ!」と言われているような気がして苦手なのだ。

 

さて、そんなこんなで採血をして検査した。相変わらず先端恐怖症があるので針の先からは目を背けておいた。それでも容器の中に赤黒いような血液が充満していくのだけはじっと見ていた。具合は悪いが、とにかく時間のある限り目の前のことは見ておかないと損だ、という気持ちだった。なにせ、このまま回復せず死ぬかもしれないのだ。

 

採血後、診察室に面した廊下のソファに横になって休んでいた。正面の診察室はカーテンがすっかり開けられており、若い研修医二人がせわしなく歩き回っているのだけが見えた。緊迫感や悲壮感はなく、蛍光灯に照らされた室内はどこまでも静かであった。

廊下の固いソファに横になってぼんやり眺めていた。

 

在宅のときはひどい咳も、診察室に入ると収まってしまうためうまく病状も説明できないし、ひどい症状があるといっても信じてもらえなかった。ここの先生はどう診断を下すのだろうか、と静かに待っていた。

 

医師は特に病名を告げることなく、処方箋を書いて渡してきた。

テオドールと書かれた処方箋は物珍しかった。フロモックスやらPL顆粒はよく見る名前だが、一体どういう薬なのか気になって仕方なかった。

 

薬の効果はてきめんだった。飲んで翌日には体が楽になっていた。これまでの様子が嘘かと思うくらい回復し、食事も早いうちにできるようになった。

自分の病気が何だったのだろうと思ってネットで検索し、「〇〇病だったろうか」などと考えていた。結局なんの病気であったかもいまだわからない。

 

いつもは日常の大半が現実感のないぼんやりしたものであったが、死を覚悟したときは周りの風景や印象的な言葉などがくっきりと脳に刻み付けられた。

健康な時は「自分は死なないのではないか」という変な自信と言うか思い込みがあったが、それはタダの幻覚に過ぎないのだ。なにかのタイミングで細菌バランス・免疫がいかれるだけでウイルスや細菌が侵入する。

 

健康なのは体の免疫のおかげであって、当たり前のものではないんだとしみじみ実感した。

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